オープニング「鳩山首相いきなりの辞任」ってどうなの!?
ではじまり
★沖縄あれこれ★
長虹堤(ちょうこうてい)フィールドワーク報告
★ゆんたくフリートーク★
「瀬長島の歴史」について
それでは番組スタートです
OUROKINAWA 0608
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★沖縄あれこれ★
長虹堤(ちょうこうてい)フィールドワークで紹介した場所の簡単な説明
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(Yahoo!地図をもとに製作)
↓行ったところの簡単な解説
■東之御嶽(アガリヌウタキ)
牧志村の御嶽のひとつ。
東之御願(アガリヌウガン)とも言います。
現在は公園として整備されています。
ちなみに戦前は東之御嶽でウガンをした後に
沖縄相撲(角力)をしていて、
現在でも牧志ウガン奉納大角力大会として毎年おこなわれています。
■崇元寺(そうげんじ)
崇元寺=石門ではないですよ(笑
戦前まで、石垣の内側にちゃんと建物がありました。
崇元寺は臨済宗の寺院で、山号を霊徳山(れいとくざん)といいます。
創建は尚清王が即位した直後の1527年頃と考えられています。
1187年即位とされる舜天から琉球処分時の王である尚泰王までの
歴代の国王の位牌を安置した琉球国の国廟(こくびょう)です。
冊封使が琉球にやってきて冊封の儀式をおこなう前に、
崇元寺にて「諭祭」という亡くなった先王の霊を弔う儀式をおこないました。
石門が国指定有形文化財に指定されています。
■下馬碑(げばひ)
崇元寺前の東と西に一基ずつあった石碑です。
現在は東側の石碑のみ現存しています。(1527年建立の実物です)
表には漢文で「但官員人等至此下馬」と記されていて、
裏には「あんしもけすもくまにてむまからおれるへし」と記されています。
「あんじも げすも くまにて むまから おれるべし」と読みます。
「按司(あんじ=偉い人)も下司(げす=下っ端)もここにて馬から降りるべし」
という意味です。
国廟である崇元寺の前では歴代の王を敬って馬から降りて歩きなさいという意味です。
■長虹堤
長虹堤は崇元寺橋(安里橋)を起点にして、
美栄橋を経由し、浮島であった那覇へとつながる約900mの海中道路です。
尚金福王の命をうけて国相の懐機が1451年に建造されました。
1452年の冊封使来琉に合わせて建造されたそうです。
■美栄橋
美栄橋は近世の久茂地村北東端にかけられた橋です。
美栄地高矼とも呼ばれます。
久茂地村の東側は宅地不足により王府の許可を得て1733年に開発され、美栄地(ミージ)と呼んでいました。
意味としては新地(ミージ)の意味です。
そのため、「美栄橋」という名称は美栄地が開発された以降に付けられた名称と思います。
■新修美栄橋碑記
1744年に建立された美栄橋の新修記念碑です。(実物です。落書きしないでね。)
表に橋改修の経緯、裏に工事の責任者・関係者、工事費用などが記されています。
美栄橋は長虹堤の築造以来、ほとんどそのままで、橋は狭く、徒歩にも船での往来にも不便をきたしていました。
そこで、美里親方安承を督工奉行(工事責任者)に任命し、橋を改修しました。
その時の記録がこの碑文です。
工事は1735年10月から翌年2月までかかったそうです。
■渡嘉敷三良の墓
中国人の瓦職人である渡嘉敷三良の墓です。
1604年以前に築造と言われています。
石灰岩の岩陰を掘り込んだ掘込式の墓で破風墓。
たぶん、昔は墓の後ろに岩盤があったんだけど、今は削られちゃったんだと思います。
渡嘉敷三良は中国人の瓦職人で、沖縄へ移住、琉球人の妻を娶って真和志間切国場村へ住んでいました。
窯を設けて瓦を焼いて、その技術を子孫へ伝えたそうです。
1604年に位牌を作って、墓は牧志村照川原にあると古文書にはでてきます。
四代目に首里城正殿や寺などの瓦葺きに従事した功績によって、
三良から数えて六代目の阮開業安次嶺筑登之親雲上良哲を元祖として士族になりました。
(阮姓安次嶺家、照喜納家、名乗頭良)
ちなみに国場に瓦に関係して瓦屋原(カラヤーバル)や瓦屋毛(カラヤーモー)という場所があります。
(国場のベスト電器の裏の山がそうです。)
文章:saku 地域研究グループ シマミグイより
実は来月から瀬長島はホテル建設に入るそうで・・・。
新聞に載っていた完成予想図を見ると島全体がホテルになるようです。
昔から親しんだ島がなくなってしまうのは寂しいですね。
昭和20年の瀬長島(米軍撮影空中写真 沖縄県教
育委員会『沖縄県史県土のすがた図説編』より)
現在の瀬長島(平成16年撮影 豊見城市役所税務
課所蔵)
豊見城市教育委員会『瀬長グスク他範囲確認調査報告書』より
■瀬長島概要
瀬長島は沖縄本島より600mのところに位置しています。
標高約33m、周囲が1.5kmの低島です。
島の西側に海岸段丘、島の東側が海岸低地となっています。
別名、アンジナ、トゥイナカンシマ(鳥鳴かん島)と呼ばれていました。
アンジナはアンジのいるナーという意味か、
あるいはアンジのいる砂の島(アンジシナジマ)の意味だそうです。
ハブが多く、ニワトリを飼うと必ずハブに襲われたので、ニワトリを飼わなかったといいます。
その他、古文書には「砂島」というイメージででてきます。
■瀬長島と瀬長グスクの歴史
いつ頃から瀬長島に村落ができたのかよくわかっていません。
しかし、グスク時代に瀬長グスクがあって、瀬長按司がいたので、
少なくともグスク時代には人が住んでいたと考えられます。
古くは我那覇から住民が移り住み、村を形成したそうです。
また、伝承ではアマミキヨが瀬長島に降りたという伝承や、
アマミキヨの子が住んでいて、
その骨が瀬長グスクの下に埋葬されているという伝承があります。
(アマミキヨは琉球の開闢(かいびゃく)神。)
島の中央部には瀬長グスクがあり、瀬長按司の居城といわれています。
近世の文書によると、瀬長按司は中山に滅ぼされたといいます。
発掘調査では青磁や白磁、グスク系土器が出土しています。
その後、近世になると「萱原小山(かやはらこやま=ススキの原っぱの小山=荒廃)」
と言われているように、近世期には対岸に集落が移動していて、
瀬長島は無人島でした。(『琉球国由来記』)
冊封使の琉球レポートにも瀬長島は無人島と書かれています。
瀬長島は文学のテーマとしても取り上げられ、
1719年に琉球を訪れた中国の使節が五言律詩をのこしていたり、
琉歌に詠まれていたり、組踊「手水の縁」の舞台にもなっています。
19世紀になってから再び人が移り住むようになって、1903年の人口は91名。
戦前はウミガメが産卵したといわれる綺麗な砂浜がありました。
また、戦前までグスクの石積みがあったそうです。
戦後、島全体を米軍が接収し米軍基地となったので住民は島へ帰れず、
以後、再び無人島となりました。
戦後の基地建設で地形が変わったため、多くの遺物・遺跡等が失われました。
1977年に返還されたましたが、
那覇空港を離発着する航空機の騒音もあり跡地利用が進みませんでした。
那覇市にも近く海中道路で結ばれているので、
野球やドライブ、釣りなどを楽しむ行楽客でにぎわっています。
■瀬長島の拝所とカー
拝所には按司墓、三様御殿(ミサマウドゥン)、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、
竜宮継宮(リュウグチング)、ウタキなどがあります。ウマンチューはアマミキヨを祀ったもの。
これらの位置は地形改変によって現在どうなっているのかわからないが、
設置者不明の拝所がいくつかあって、その拝所の位置が戦前の拝所の位置と近いので、
ある程度の位置を確認できたそうです。
確認できたのは、上ヌウマンチュー、下ヌウマンチュー、リュウグチング。
按司墓は現在、コンクリートブロックで丘陵の中腹にあるが、本来の場所ではないそうです。
カー(井戸)は按司井、波平井、知念井などがあります。
小さい島の割には水は豊富だったようです。
戦後に島が米軍に接収されてしまったので、
島にあった拝所は対岸のアカサチムイの所に遥拝所を作って、そこを拝んでいます。
★参考文献★
『豊見城村史』豊見城村役所、1964
『角川日本地名大辞典47 沖縄県』角川書店、1986
『沖縄県の地名』平凡社、2002
※『豊見城市史 民俗編』豊見城市役所、2008
に充実した情報があったんですが、ラジオの時間までにこの本を参照することできませんでした。
ぜひこの本も参照してみてくださいねー。
文章:saku 地域研究グループ シマミグイより
瀬長島が来月から温泉ホテルとして開発されるようです。
瀬長島は今では那覇近郊にある貴重な自然ビーチと空き地で、若者の憩いの場所となっていますが、県内の様々な開発地にはそれぞれに歴史、御嶽やウカー、グ スクなどの精神文化財があったり、何も無い自然こそがそのまま近郊住民の憩いの場所になっているかもしれません。
県内のホテルの稼働率が芳しくないという情報や潰れてしまった所もあるなか、本当に儲かるのだろうか。儲かりさえすれば正当化されるのか。自然や精神文化 遺産、憩いの場所がどんどん失われて行く中、沖縄はどこを目指すのか。
今回の瀬長島の歴史コーナーを通して、みなさんと新しい価値観について考えて行けたらと思います。
OUR OKINAWAわったーばんどーは、未来の沖縄の為に、今、考えて行動して行くのは「わったーばんどー、私達の番だよ」という想いでやっています。
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